第3回:インフォームド・コンセントと患者のリスク認識
インフォームド・コンセントの百年
(1)カドーゾ判事の説示
昨今では、インフォームド・コンセントと患者の自己決定権が医療現場に広く受け入れられるようになった。
アメリカの裁判の歴史の中で、患者の自己決定権を最初に明瞭に述べたのは、ニューヨーク州最高裁判所のカドーゾ判事であると言われている。患者メアリー・シュレンドルフが検査にだけ同意したのに、悪性腫瘍と判断したドクターは、本人の意思に反して無断で悪性腫瘍の摘出手術をおこなった。1914年のシュレンドルフ事件判決※1において、カドーゾ判事は、「正常な判断能力をもつ成人は、誰しもが、自分自身の身体に何がなされるべきか決定する権利を持つ("Every human being of adult years and sound mind has a right to deter mine what shall be done with his own body…")」との判断を示した。
患者本人に普通の成人としての判断能力があるのであれば、例え医学的に必要な手術を行うときであっても、まず本人の同意を得なければならない、という考え方が次第に確立していった。
アメリカのインフォームド・コンセントの歴史は、1914年を境にして本人の意思と同意書がすべてを規律するようになったなどという単純なものではない。シュレンドルフ判決の意義は、医師の判断がすべてであった医療現場に、患者の自己決定権という新しい風を吹き込んだが、患者の自己決定権がすべてだと言っているのではない。むしろ、医師などの専門職による「医学的に正しい判断」と「患者本人や家族の判断」が齟齬・矛盾・対立を来たすときに、どのようにバランスをとり、どのように適切な線引きをするかがその後の課題となった。
(2)患者の自己決定権と裁判所の事前の判断
患者の意思と医師の判断が対立したとき、医療機関はどうしたらよいのだろうか。医師は患者の意思を無視して適切な治療をすれば、自己決定権侵害といわれるかもしれない。他方、患者の意思にしたがって適切な治療をしないでいれば、後から医療過誤で訴えられるかもしれない。「患者の自己決定権」という考え方が医療現場に持ち込まれることにより医療現場にhuman rightの風が吹き込んだことは大きな前進だったが、専門的判断と自己決定権の対立は、理念的にも実践的にも、深刻な矛盾と葛藤を生み出した。
このような対立が生じたときにどうするか。アメリカ的な答えは、「裁判官をベッドサイドに呼んで事前に判断させる」ということだった。日本では、裁判官は事が終わって何年も経ってから民事の損害賠償訴訟や刑事の殺人・傷害・業務上過失致死傷などの被告事件について判断を示すものと考えられているし、実際に、日本の裁判官が事前に判断を示した事例はほとんどない。これに対して、アメリカにおける治療拒否や治療の差し控えの事例では、場合によってはわずか1時間以内に病院にかけつけた裁判官によって、患者や保護者の意思に反した治療を行うかどうかが決定されてきた。小児についての親権者の治療拒否と虐待、帝王切開拒否と胎児の権利、植物状態の患者の延命治療の中止・差し控えなど、法的観点からも生命倫理の観点からも困難な問題が次々と裁判所に提起され、事前の判断の集積によって、どのような事例で患者の自己決定権が優先されるか、どのような事例で医師の専門的な判断が優先されるか、次第に判断基準が安定していった。※2
日本でも、患者の自己決定権とインフォームド・コンセントの法理は、医療現場に新しい風を吹き込んだ。ただ、現場の矛盾対立を止揚して新しいルールを作り出していく力がアメリカと比較して弱いのは、裁判所を「いまここでどうするか」という議論の場にする伝統に乏しい日本的司法の弱点ともいえるだろう。※3インフォームド・コンセントという横文字を輸入することはできても、訴訟社会アメリカの伝統は輸入できなかった。そのことの功罪は両面あるとしても、制度の一部しか継受できなかった感は否めない。
※1 Schloendorff v. Society of New York Hospital, 211 N.Y. 125, 105 N.E. 92 (1914)
※2 「患者の自己決定と事前の司法的介入」児玉安司、判例タイムズ980号1998年10月15日
※3 「生命維持治療の中止と差し控え〜「法」の役割は何か」児玉安司、死生学[5]医と法をめぐる生死の境界、東京大学出版会、2008年
患者のリスク認識と情報希求度
(1)医療現場のコミュニケーション
患者は医療のプロセスで必然的に発生してくるリスクをどのように理解しているだろうか。
重い疾患に向きあうとき、ハイリスクの医療を受けようとするとき、患者や家族の心のなかには、医療への期待と不安が交錯している。医療者は、患者の「期待」と「不安」に向きあいながら、長く継続的なコミュニケーションを続け、患者の「満足」と「納得」に辿り着こうとする。コミュニケーションは言葉ばかりではない。医療者のちょっとした表情や仕草にも、患者・家族の心は揺れ動く。現場の医療者は、患者・家族の思いに向きあいながら悩みを共にしている。
「どんな合併症が生じるか、どんなメリット・デメリットがあるか、すべてデータをあげて説明同意書に書いてあります」というような説明では、患者の願いとも医療者の思いともかけ離れている。それにもかかわらず、民事の損害賠償訴訟における説明義務違反に過剰反応が起こり、「訴訟で負けない説明文書」という蜃気楼を追いかける人は後を絶たない。
(2)0・1%に重大な合併症が発生するならば
ここでは、数字のデータをあげることの意味を考えてみたい。例えば、「この手術をすると、0・1%の確率で生命に関わる重大な合併症が発生します」と患者に説明したとしよう。この手術は危険か、危険でないか、という質問を法学部の学生、医学部の学生、市民講座の参加者など、医療専門職以外の人にしてみる機会がたくさんあった。圧倒的多数は、危険でない、という方に手を挙げる。
比較のためにいうと、東京国際空港の航空機発着数は年間約34万8000回、延べ6000万人以上の人が利用する。0・1%に生命に関わる事故が起こるとすると、年間348回、延べ6万人の人が生命の危機に直面することになる。交通機関の安全水準として、0・1%というのは、現実には到底ありえないほど危険な水準であることが理解していただけるだろう。0・1%の生命の危険というのは、飛行機に乗るリスクではなく宇宙飛行士になるリスクに近い。通常のサービス業として許容されるためには、リスクはもう何桁か小さくなくてはならない。医療は、それほど不完全で不安定な技術であるともいえる。
数字のデータは、なかなか直感的な理解にまでたどり着かない。患者は、0・1%のリスクを、「自分には起こらないこと」として受け止めていることが多い。また、医療者の方も、練達の者でさえ0・1%への備えが薄くなることがある。千にひとつのことは現場ではときどき起こるから、医療現場は、失望した患者・家族の嘆きや、時によってクレームに向き合うことになる。紛争を抑止するのはデータを示す形式ではない。事前の直感的理解と、支えあうコミュニケーションのプロセスが重要である。
患者ニーズについての実証的研究の必要性
医療のコミュニケーションにおける患者ニーズは何か、という点について、実証的研究がたくさん行われてきている。例えば、すべての情報を知りたいというニーズを100、何の情報も聞きたくないというのを0として情報希求度を調査し、すべての決定を自分でしたいというニーズを100、医療者にすべて任せたいというのを0として自己決定希求度を調査する。
Endeらによると、教育研修病院のプライマリーケアのクリニックを訪れる患者312人(疾患の重症度は多様)の意識調査において、情報希求度は79・5±11・5、自己決定希求度33・2±12・6であった。アメリカにおいても、診療の情報は隠さず伝えてほしいが、意思決定については医療者に支えてほしい、という患者像が見えてくる。※4日本でも同様の研究成果がある。※5
患者・家族が医師の説明をどのように受け止め理解しているか、そのリスク認識はどのようなファクターに影響されるか、患者・家族の満足度はどのようなコミュニケーションによって高まっていくのか、今後の実証的研究の発展が望まれる。また、実証的研究を足場として初めて、本当のリスク・マネジメントが可能となる。
※4 Jack Ende,et al, Measuring Patients’ Desire for Autonomy, Decision making and Information Seeking Preferences Among medical Patients, 4 J General Intenal Medicine 23(1989).
※5 「日本人の医療行為に関する情報希求度の測定」大木 桃代、福原 俊一、日本健康心理学会編集委員会編、健康心理学研究10巻2号 1997年12月
※ この記事は月刊誌「WAM」平成26年6月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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