暮らしの中の信頼
毎日の暮らしを考えてみる。朝、目覚まし時計が鳴って起きたら、電気をつけ、水道の水で顔を洗い、歯磨きのチューブをひとひねり、女性ならメイクを、男性なら髭剃りを、家を出たら青信号で横断歩道を渡り、電車で通勤、職場についたらエレベーターでオフィスへ…。日々の生活は、製品・サービスへの信頼に満ちあふれている。ただ、信頼はずいぶん多様なものだとも思う。
@信頼の対象
信頼される側の性質を「信頼性」と呼ぶ。人は何を信頼しているだろうか。
製品・サービスの供給主体はさまざまである。電気や電車は株式会社だが公共性が高く、水道は公共事業、エレベーターや自動車のメーカーは民間の製造業である。供給主体の公共性は、信頼性に関係しているが、公共性=信頼性と単純に結びつけることはできない。
有名メーカーの化粧品が白斑などのトラブルを起こすことがわかって、大きく報道されたことがあった。有名メーカーは信頼性が高い、という側面もある。信頼を裏切れば信頼性は低下する。
せめて、トラブルが起こったときに必ず公表されるのであれば、公表されない限りトラブルがないだろうと信頼することができる。情報を信頼する、あるいは、情報の隠蔽がないことを信頼する、という側面もある。トラブルを隠蔽したことが明るみに出れば、信頼性は決定的に低下し、市場から退場を迫られることもある。
Aリスクの大小と発生頻度
どのような確率でトラブルが起こり、どのような被害が生じるか。リスクの大小は被害の大きさと発生頻度を掛けあわせたものである。
朝から停電という事態は発展途上国でない限りは、なかなか経験することはないが、災害等で停電が生じると、生活の電化が進んでいる家ほど影響が大きい。ただ、冷凍食品がみなダメになってしまうほどの長時間の停電は稀である。停電が長時間続くような国では、冷凍食品の保存が安定的にはできず、在庫のうちに解けたり凍ったりすれば品質の信頼性も保証の限りではないから、冷凍食品の市場も発展しない。他方、いったん冷凍食品が普及すると、停電時の被害は大きくなる。信頼によって市場が拡大するが、信頼を裏切られたときの被害は大きくなる。停電の確率の高い国では停電の被害を小さくするような生活の仕方を工夫して、人はリスクを小さくしようとする。リスク情報に市場が反応しているともいえる。
青信号で横断歩道を渡るときに、信号を無視して車が突っ込んでくるリスクがないとはいえないが、極めて珍しいことであることを我々は知っている。そのような事件が起これば大々的に報道されるが、そのような報道は滅多にない。重大な事件が報道される頻度によって、われわれは発生頻度についてのあらましの感触を得ることが多い。ただ、メディアの報道の大小と頻度は、集中報道が起っているときには、必ずしも現実を反映していないこともよく知られていることである。
B政府や法制度の関与
歯磨きにも医薬部外品や化粧品としての行政規制がある。人の暮らしにはありとあらゆる場面で行政規制が行われており、その後ろには必ず法の根拠がある。
自動車を運転するためには免許が必要であり、無免許は処罰される。自動車の運転を行うことを一般的に禁止して、行政から免許を受けた者のみに運転を許すという仕組みは「免許制度」である。広くは「許認可制度」と呼ばれており、事故やトラブルが起こる前に規制を行うことから「事前規制」と呼ばれることもある。これに対して、交通事故や法令違反が起った後で取締りを行うのを「事後規制」という。箸の上げ下ろしまで事前に行政にお伺いを立てるのがこの国の問題点だといわれ、事前規制から事後規制への移行がいろいろなところで課題とされている。
自動車を運転する人は、運転免許を持っているはずだとわれわれは信頼しており、また、運転免許を持っている人が免許を更新しながらある程度の能力を維持しているはずだとわれわれは信頼している。事前規制は人の信頼性を高めている。また、青信号の横断歩道に突っ込んで事故を起こせば、行政処分で免許を失うだけでなく、刑事制裁も課せられて大きな不利益を被るのだから、そんなことはしないはずだと思っている。事後規制や制裁も、信頼性を高める役割を担っている。
リスクの大きなものには事前事後の規制をかける法制度が整備されてきている。大きな事故が起るたびに「政府は何をしている」というメディアの世論が沸騰し、法制度の整備の背景となることもしばしばある。
信頼に関する理論
長年の行動を知り尽くしているときであれ、出会った時の直感であれ、人が人の人格を評価して信頼感を持つことはとても重要なことである。ただ、高度に発展した分業社会において、われわれはもっと複雑な社会システムによって信頼と信頼性を維持するようになっている。
信頼とは何かについては、さまざまな議論がある。ニクラス・ルーマンは社会システム理論の立場から信頼を「社会的な複雑性の縮減メカニズム」として捉え、社会的合意のためのコミュニケーションとディスカッションを重視するハーバーマスとの間で著名なハーバーマス=ルーマン論争※1が行われた。
日々の暮らしの中で、あらゆることについて情報を収集してリスクを評価することは不可能である。信頼という社会システムを組み込むことによって、われわれの生活は複雑性から解放されるともいえる。他方、社会が複雑になればなるほど、リスクに関する情報と誠実なコミュニケーションの価値は増してくる。
わが国での信頼のあり方について、山岸俊男は社会心理学の立場から考察を行い、信頼を「道徳的社会秩序の存在に対する期待」としたうえで、@能力に対する期待としての信頼(社会関係や社会制度のなかで出会う相手が、役割を遂行する能力を持っているという期待)と、A意図に対する期待としての信頼(相互作用の相手が信託された責務と責任を果たすこと、またそのためには、自分の利益よりも他者の利益を尊重しなければならないという義務を果たすことに対する期待)の二つの類型に分類した。
品質の保証のない商品が流通しているような状況では、人はしばしば互いに裏切ったときの不利益を大きくするような「やくざ型コミットメント関係」に陥りやすいとされ、また、社会的知性に裏打ちされた一般的信頼の育成によって閉鎖的社会からの離脱が可能になるとされる。信頼性に関する情報を重視する社会的知性の育成が、信頼する者と信頼される者をともに進化させていくとする「共進化モデル」の提案※2が興味深い。
医療における信頼
医療者は、国家から与えられた免許をもつ職能集団である。医療については、プロフェッショナルとして医療者が誰よりもわかっているはずである。ただ、患者や市民には医療のことはわからないと思い込むのであれば、それはオートノミーという名の社会的な孤立ともなりかねない。
患者や市民がよい医療をよいと評価するのであれば、よい医療を目指す医療者にとって何にも増して心強い応援団となっていくだろう。信頼する者と信頼される者は、ともに情報を共有しながら、超高齢化という大きな課題を乗り越えて進化していく必要がある。
法制度の設計も、不確実な結果から遡って医療者を裁くことに力を注ぐのではなく、むしろ信頼関係の基盤となる情報共有を促進することに重点を移していく必要がある。
山岸のいう「共進化モデル」は、医療における信頼関係の育成について、「賢い患者になりましょう」というNPO法人ささえあい医療人権センターCOMLの多年にわたる運動を思い起こさせる。よい医療は賢い患者が作り、賢い患者はよい医療者の情報提供に支えられていく。信頼の基盤となる社会システムの整備はますます重要になってきている。
※1… ユルゲン・ハーバーマス、ニクラス・ルーマン 「ハーバーマス=ルーマン論争 批判理論と社会システム理論」 佐藤嘉一・山口節郎・藤沢賢一郎訳 1987年 木鐸社
※2… 山岸俊男 「信頼の構造 こころと社会の進化ゲーム」 1998年 東京大学出版会
※ この記事は月刊誌「WAM」平成26年11月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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