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医療介護のリスク・マネジメント


 全12回に渡って、医療・介護の現場におけるリスクマネジメントについてお届けします。


<執筆>
弁護士・東京大学特任教授 児玉 安司


第9回:ルールと倫理と責任と


行政の仕事についた医師Aさんとの会話


 Aさんは優秀な医師である。昼夜をわかたず診療に全力を尽くしてきた。研修医時代には、臨床能力の不足を感じることが多かった。初めて受け持ちの患者さんが亡くなって、夜遅く診療科の部長と一緒にご遺族への説明を終え、ありがとうございましたと言ってすすり泣くご遺族を後に残して医局に戻ってきたら、あれもできなかった、これもできなかったと後悔ばかりだった。疲れ果てているのだけれど眠る気にもならず、誰かと話したいのだけれど話す気にもなれず、ずいぶん長い時間じっと座っていた。
 ふと、医者にならなかった友人のことを思い出した。テントを担いで一緒に山に登った仲間の声を無性に聴きたくなって電話をかけた。しばらく、このごろどうしている、というような何でもない話をしていたら、「何かあったのか」ときかれた。「患者さんが亡くなって…」そして、自分は何もできなかったのだと言いかけたら涙が溢れ、子どものように声を上げて泣いた。
 Aさんは、それまで以上に頑張るようになった。何をしていても患者さんのことを忘れることはなかったし、学会で勉強していても発表していても、少しでもよい臨床ができるようになればという一心でやってきた。10年があっという間に過ぎた。少し自信らしいものも芽生えてきたのだけれど、その一方で、医療制度のさまざまな矛盾や問題点に気がつくようになった。役人は現場のことが何もわかっていないから、と批判ばかりしていても始まらないと思うようになった。
 偶然のきっかけがあって、行政の仕事についた。臨床現場から離れることには未練があったが、自分の経験がよい制度につながり、患者さんのためになればよいと思って選択した。行政の仕事について、世の中はこんな風に動いていたのかと驚くことも多く、自分の視野が広がってとてもよかったと思っている。いろいろな見方や利害関係があるなかで政策をまとめていくときにはバランス感覚が重要だということもわかってきたし、ものの言い方ひとつで政策が壊れたりすることもあるから、ことばが大切だというのも理解できる。
 「ただ…」と少し暗い顔をしてAさんはことばを濁すのである。

心情倫理と責任倫理


 マックス・ウェーバーという社会学者がいる。1864年に生まれ1920年に没した。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や「経済と社会」、「古代ユダヤ教」、「世界宗教の経済倫理」など、大著が多数あり、まさに学問の世界の巨人である。
 ウェーバーの晩年は、第一次世界大戦に突入して無残に敗北していく祖国ドイツとともにあった。野戦病院での兵役を経て書かれた、「職業としての学問」(Wissenschaft als Beruf,1917年)※1、「職業としての政治」(Politik als Beruf, 1919年)※2の二つの著書は、邦訳の文庫本で百ページ前後の短いものであるが、100年経ってもなお宝石の輝きを失っていない。
 「職業としての政治」のなかで、心情倫理と責任倫理の対立について、ウェーバーは次のように述べている。「心情倫理は無責任で、責任倫理は心情を欠くという意味ではない。もちろんそんなことを言っているのではない。しかし、人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば、『キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる』――か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則にしたがって行為するかは、底知れぬほど深い対立である」※3。
 さて、ウェーバーが何を言ったかを正確に理解して言葉にするような難事は筆者にはとてもできないことなので、以下には、「職業としての政治」を読んで心に湧いてくる感想と、それから、Aさんに伝えてみたいと思っていることを書こうと思う。
 政治というのは政治家だけがやっている仕事ではない。およそ、国や自治体など公の仕事に従事する者は、行政官であれ裁判官であれ、権力の行使に関与しているのであり、広い意味で「政治」を職業にしている。権力の行使というと、何か威張ったり命令したりするようなイメージが一人歩きしがちだが、煎じ詰めたところ、予算の配分と法律の執行の二つにまとめることができる。予算の配分とは、税金などの形で強制的に集めてきたお金の分け前を決めることであり、法律の執行とは、ときには刑罰まで科して、決めたルールを強制することである。
 一人ひとりの人間は不完全であり、清らかでもなく賢くもない。さらに、人間の集団には善悪と欲望が渦巻いており、一人ひとりの人間以上にとんでもない間違いを起こすことがあるのは、歴史が証明している。しかし、そうかといって、政府も自治体も廃止するわけにはいかず、むしろ、国は何をしている、という叱咤の声がメディアに溢れている。行政がますます肥大化し、行政事務がますます煩雑化する中で、今日も予算の配分と法律の執行は、休むことなく続いている。
 とりわけ、予算を削ったり処罰や処分を科したりするような「マイナスの配分」や「マイナスの強制」は、いつでも評判が悪い。また、政府の役割を小さくしてできるだけ市場に委ねる制度に移行するとしても、市場への情報提供のところだけはきちんと制度を作っておかないと、市場は簡単に弱肉強食の闇市になってしまう。
 医療と介護・福祉は、その昔「バラマキ福祉」ということばがあったくらい行政が福の神だったが、肥大化した福祉国家の経済成長がマイナスになるという人類史上初の難しい事態に直面している。みんなで感動をわけあって、よい話をしているだけで何とかなるなら苦労はしないが、それぞれが持ち場ごとに未来の予測を立てながら、「マイナスの配分」や「マイナスの強制」のあり方を考えざるを得ない。
 マックス・ウェーバーの「職業としての政治」は、次のようなことばで結ばれている。「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず(dennoch)』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への天職(Beruf)を持つ」※4。そんなに強くなるのは普通の人間にはムリかも、とも思うが、ウェーバーも要は「頑張れ」と言っていると思って、休み休みながらでも元気を出していこう…。

※1… マックス・ウェーバー「職業としての学問」尾高邦雄訳 1936年 岩波書店
※2… マックス・ウェーバー「職業としての政治」脇圭平訳  1980年 岩波書店
※3… マックス・ウェーバー「職業としての政治」脇圭平訳 89頁,Politik als Beruf, Reclam, S.70
※4… 同上 106頁,ibid. S.83

倫理とソフトローの時代


 医療界にさまざまな問題が生じる昨今、「このごろ都にはやるもの」は、倫理とソフトローである。
 法的な強制を伴わない自発的なルールをソフトローと呼ぶ。立法・行政・司法の三権が市場・社会の中に生じるすべての問題についてルールを作り運用することは、すでに困難となっている。政府の強制を伴うハードローよりも、ソフトローに人気が集まるのもまた時代の趨勢であろう。
 「国は何をしている」という叱咤激励に応えて政府の権限を拡張していくよりも、市場原理を重視する「小さな政府」の方が行政コストも小さくて済む。政府の役割は、許認可権限と行政指導によって産業をリードすることではなく、市場への適正な情報提供が行われるようにしたら後は消費者の自己決定に委ねればよい…。本当にすべてそう言い切ってしまえるのであれば、悩みはずいぶん軽くなる。しかし、医療や介護・福祉の世界は、政府の免許による業務独占と社会保険によって、縛られると同時に守られている。市場原理や消費者の自己決定とは程遠い現実がある。
 政府規制と市場原理のはざまで、「倫理指針」がたくさん作られているのだが、その中身は、権利擁護や補償制度、個人情報保護や情報公開、方法の科学性からデータの真正性、一般市民目線の自己決定から専門家のピアレビューに至るまで、実に雑多な要素を「倫理」という魔法のスープに浮かべたごった煮のような状況である。なるほどこれではとても強制はできないだろうと現場の困難が察せられることが多い。
 困難に正面から向きあったとき、心情倫理と責任倫理との「底知れぬほど深い対立」が見えてくるのかもしれない。

※ この記事は月刊誌「WAM」平成26年12月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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