事案の概要
原告X(大正12 年生まれの女性)は、夫D とともに自宅で生活してきたが、D が平成18 年4 月に死亡したため、その後一人暮らしをしていた。被告Y1 はX の長男であり、X とD との間には、ほかに長女E、次女F がいた。
D が死亡してから、X に従来からあった物忘れの症状がさらに悪化し、自宅の片付けや掃除をほとんど行わなくなったため、Y1 は、X に大学病院の物忘れ外来を受診させ、うつ病、アルツハイマー型老年認知症との診断を受けた。同年10 月、Y1 はX の要介護認定申請を行い、要介護2 の認定を受けた。
Y1 は、同年10 月頃から介護施設を探し始め、被告Y2 株式会社が運営する介護付き高齢者住宅(本件施設)へのX の入居を検討するようになった。当時X は、老人ホーム等への入居に対する拒否感があり、E やF もX を施設に入れることに反対していた。そこでY1 は、X に対し、人間ドックのために宿泊すると説明し、本件施設へ行くことの承諾を得た。X は、同年12 月18 日から同月26 日まで、本件施設に体験入居した。同月20 日、Y1 はY2 との間で、X 名の署名及び押印をしたうえで、X に本件施設の終身利用権を与え、各種サービスを提供する旨の入居契約(本件入居契約)を締結した。
X はいったん自宅に帰り、家政婦の住み込みの世話を受けながら、ケアマネジャーや訪問看護師による訪問を受け、体験入所時に指摘された疥癬の治療を受けた。その後、症状が治癒したのを受けて、平成19 年1 月29 日、X は本件施設に入居した。当初X は、たびたび帰宅願望を訴えたが、同年4 月中旬頃から落ち着いた生活を送るようになり、同月には要介護度が要介護1 と軽減した。
E 及びF は、同年2 月4 日、本件施設に赴きX との面会を求めたが、本件施設職員はこれを断った。その後、E 及びF とY1 は、双方の弁護士を介してX との面会について協議を行い、同年4 月17 日、X の成年後見の申立てを家庭裁判所に対して行うこととし、X の成年後見が開始されるまでY1 がX の財産を維持管理すること、E 及びFは本件施設でX と面会できるがX の気持ちを不安定にさせる発言、言動をしないこと等の合意をした。
後見審判の開始申立ての後、同年10 月12 日、E 及びF とK 弁護士は、本件施設でX と面会した後、本件施設職員の制止を振り切ってX を本件施設から連れ出した。裁判所の選任した医師による鑑定書によれば、X は軽度認知障害等と診断された。
家庭裁判所は、平成20 年5 月9 日、X について補助を開始する、補助人としてT弁護士を選任する旨の審判をした。
Y1 は、平成19 年1 月22 日から同年10 月29 日にかけて、Y2 に対し、X 名義の預金口座から合計1855 万円余りを送金していた。Y2 は、平成20 年10月24 日、X に対し、このうち1245 万円余りを返還した。
本件訴訟は、X からY1 及びY2 に対し、X の承諾を得ることなく、X の氏名を冒用して、その意思に反して介護施設への入居契約を締結してX を入居させ、X が退去の意思を示しているにもかかわらず、本件施設内での拘束を継続したことが、共同不法行為に該当する等と主張して、損害賠償を求めた事案である。
なおX は、平成20 年9 月8 日、K 弁護士に対し、Y らに対する損害賠償請求訴訟の提起を依頼する旨の委任契約書に署名押印した。さらに同月22 日、法務局所属公証人J は、X を委任者、F を受任者とする任意後見契約公正証書を作成した。その後F は、平成23 年11 月21 日、任意後見人として、K 弁護士らに対し、本件の提訴を含むすべての訴訟行為についてこれを追認する旨の意思表示をした。
《判決》 【請求棄却】
「Xは、夫が死亡してからX宅で単身生活を始め、その生活が困難になったことをある程度認識していたか、少なくとも、長男であるY1から一人での生活が難しいので、施設に入居するように勧められるなどしたことから、同人にその処遇を委ねていたし、その上で、本件施設に入居してからは、X宅ではなく本件施設で共同生活を送っていることを認識し、概ね了解していたということができる。
また、Y1は、Xの長男であるが、XのX宅での単身生活が困難になったものの、直ちにその家族やE等の姉妹が介護をする等の対応を取ることができなかったことから、本件施設に入居させることにして、体験入居をさせるなど、その様子を見たうえで、本件施設に本入居させたと認められる。
したがって、Xは、長男であるY1に対し身の処遇を委ね、Y1は、Xに相応しいと考える本件施設に入居させるとともに、Xは、本件施設内で共同生活を続け、EやFも面会を続けていたというのであるから、Xは、判断能力が低下していたものの、本件施設への入居とそこでの共同生活の継続を認識し、これを認識した状態で、異を唱えて抵抗するなどの言動をしたとは認められず、その処遇を了承していたというべきであって、本件施設への入居とその継続がXの意思に反していたとか、身体的自由を拘束していたとはいえず、YらのXに対する不法行為を構成するということはできない」。
(東京地裁平成24年5月29日判決〔判例集未登載。TKC文献番号25494391〕)
【解説】
1 はじめに
本件は、介護方針につき家族間で対立があり、要介護者本人の意にも沿わない面があるなかで施設入所させたことにつき、施設退所後、母親が施設入所させた長男と施設を相手方として提訴した事案である。家族間の(往々にして財産も絡んだ)この種の紛争は珍しくないと思われるが、裁判にまで至った事例として紹介する。
2 施設入居と不法行為
認知症の症状が出現するなどして生活が困難となった単身の要介護者につき、家族が必ずしも本人の意に沿わない形で施設入居を選択せざるを得ない事態は現実に生じ得る。この点、裁判所は、〔判決〕のように述べ、本件の事実関係のもと、損害賠償を基礎づける違法はないと判示した。「Xが自宅に帰りたいと述べたとしても、いわゆる帰宅願望の可能性も含め、相応の判断能力を前提とした真の意思であったかどうかは疑問がある」のであるから、この結論自体、妥当と思われる。
ただしY1は、Xの入居の際、Xに対して、足の治療やX宅の改装をするためしばらく宿泊する旨の説明をしている。そのうえで本件施設職員も、Xに帰宅願望があることから、現在自宅がリフォーム中であるまたは足の治療が必要で名医がいる旨の説明をすること、キーパーソンであるY1以外の親族から電話や面会の申出があっても、Xには取り次がず、Y1に連絡するよう対応すること等を確認したとされている。家族間の争いがあるなかで、たとえ認知症状があるとしても、一方の家族に肩入れする形での施設の関わりが適切な姿勢といえるのか、適切だとしてどのように関わるのが望ましいのかについては、後日訴訟となっただけに慎重に検討する余地があろう。
3 入居契約の効力
本件では、Y1がY2との間で本件入居契約を締結したことが無権代理行為であるから、Y2が受領した(返金分との差額の)609万円余は法律上の原因なく利得したものであり返還義務を負うと主張した(不当利得・民法703条)。これに対し本判決は、Xは約8カ月間本件施設で生活しているうえ、その間、要介護1の認定を受けるなど状態が改善しており、その症状に照らして適切な介護サービスが提供されたのであるから、XはY2に支払われた金額相当の利得を得ている(したがってXに損失はなく、返還を求めることはできない)旨判示した。
この結論自体は妥当であるとしても、〔事案の概要〕にみられるように、本件入居契約は、Y1がXの明示的な委任を受けることなく、X名で「勝手に」締結したもののようである。本判決も、「締結の時点で、Xが、本件入居契約の内容の十分な説明を受け、本件施設内での介護サービスの内容や、本件入居契約の内容を十分に理解していたかについては疑問がないではない。そうすると、Xが、本件入居契約締結の時点で、その契約内容を理解した上で、Y1に本件入居契約締結の代理権を与えていたかについては、疑問が残る」と判示している。無権代理にあたるとすれば、その事情は施設も当然に知っていたのであるから、「適切なサービス」が提供されていなかった場合など、返還請求が認められる余地がないとはいえない。法的には、成年後見人でもなく、明示的に代理権を授与されてもいない家族による契約の締結行為が、きわめて危ういものであることを認識する必要がある。
※ この記事は月刊誌「WAM」平成26年2月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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