事案の概要
A(大正13 年生まれ)は、子であるX らと同居していたが、物忘れが多くなり認知症と診断された。その後、大腿骨骨折のため手術を受け、リハビリのため、平成19 年10 月18 日、A はY(社会福祉法人)が設置運営する介護老人保健施設(本件施設)に入所した。A には当時、認知症および大腿骨骨折のほか、胃潰瘍、心筋梗塞、狭心症、心臓弁膜症、肝臓病の病歴があった。また入所時、要介護3 であったが、平成21 年4 月14 日認定で要介護4、同年10 月7 日認定で要介護5 となった。
A は、平成21 年7 月26 日午後4 時30 分頃、本件施設からN 病院に緊急搬送され、同病院において肺炎および意識障害との診断を受けた(当時、B 医師が本件施設の施設長を務めていた)。その後A は、G 病院・T 病院に転院し、平成22 年3 月24 日、T 病院にて肺炎を直接原因として死亡した。
こうした事実関係の下、X からY に対し、@ A が肺炎を発症したのに、Y が医療機関への連絡等の適切な処置をとらなかったため、A の死期が早まった、A A が下肢創傷を発症したのに、Y が適切な治療やX への適切な情報提供を行わなかったため、A が適切な治療を受けることができず、治療期間が長引いた、BAの情報提供義務違反により、A の健康保持等についてのX の期待権が侵害されたとして、X がY に対して、損害賠償を請求したのが本件である。
以下では、Aの情報提供義務とBに関する判示部分について判旨を紹介する。
《判決》 【請求棄却】
「X は、Y が、利用者及び利用者の家族に対する義務として、利用者の家族に対し、利用者の健康状態等について必要な情報を提供するべき義務を負っており、A 及びX との関係で、X に対し、A の右第1 趾爪周囲炎について情報を提供すべき義務があった旨主張する。」
「まず、A に対する関係での義務違反の有無についてであるが、本件施設のように、医師や看護職員等を職員として擁し、医学的管理や看護サービスを提供して、所内で傷病についての第一次的な対処を行うことを予定する介護老人保健施設において、それぞれの利用者のあらゆる健康上の変化をすべて家族に情報提供しなければならないとすることは、現実的ではないし、また、このような義務を認めるべき合理的な根拠もない。……入所契約書(第10条〔緊急時の対応〕には、本件施設が利用者の家族等へ連絡を行う場合として、本件施設医師の医学的判断により、利用者について協力医療機関等での診療を依頼する場合、利用者に対し、当施設における介護保険施設サービスでの対応が困難な状態、又は、専門的な医学的対応が必要と判断した場合及び入所利用中に利用者の心身の状態が急変した場合が定められており、また、重要事項説明書(第7 項〔緊急時の対応方法〕)には、利用者の容態に変化等があった場合は、医師に連絡する等必要な処置を講じ、必要に応じて家族の方にも連絡する旨が定められており、Y は、これらの規定に沿った対応が求められるとともに、これに沿った対応をすれば足りるというべきである(もとより、Y において利用者の家族と密に連絡を取ることは望ましいことではあるが、法的な義務という観点からすれば、連絡をすべき場合は、上記のとおりとなる。)。しかるに、本件で問題となっている爪周囲炎は、足の爪の周囲の炎症にとどまり、本件施設医師による対応が十分に可能な場面であり(実際、その症状は軽快した)、本件入所契約や重要事項説明書の上記条項が想定している容態の急変等の事態には当たらないから、Y に、A の右第1 趾爪周囲炎に関する情報提供義務を認めることはできない。
次に、Xに対する関係での義務違反の有無についてであるが、Xが主張する期待権が法的保護に値する利益といえるかについては疑問がある(むしろ、AがYに対して有する本件入所契約上の上記請求権の反射的な利益にとどまると考えられる。)が、仮にこれが法的保護に値する利益であるとしても、その情報提供をすべき範囲は、Aに対するものを超えることはないというべきであり、上記の通り、Yには、Aとの関係で情報提供義務がない以上、Xとの関係でも同義務を認めることはできない。
以上より、Aの右第1 趾爪周囲炎に関して、Yに何らの注意義務違反は認められない。」
(東京地裁平成24年8月1日判決〔判例集未登載。TKC文献番号25496319〕)
【解説】
1 はじめに
本件は、介護老人保健施設での入所者の肺炎および下肢創傷の発症につき、施設側の過失が問われ、これが否定された事案である。法律判断としては情報提供義務違反の有無が争われた点が特徴的である。
2 肺炎・下肢創傷の治療と注意義務違反
最初に、情報提供義務以外の争点について触れておく。争点@につき、(@)平成21年7月21日および22日時点の注意義務違反、(A) 同月26日午前10時時点の注意義務違反、争点Aにつき、(B)適切な治療を怠った注意義務違反が問われ、いずれもXの請求が斥けられた。
(@)については、「Aが同月21日及び同月22日の時点で肺炎を発症していたとは断定できないというべきであるし、少なくとも、上記時点において直ちに肺炎を強く疑い、医療機関での受診等をさせるべきであったとはいえず、肺炎の可能性もあることを踏まえた上で、本件施設において、投薬等により経過観察を行うこととしたB医師らの処置も合理的なものであったといえる」とし、(A)については、「同月26日午前10時時点で、容態の急変であるとして、直ちに緊急搬送等をすべきであったとまではいえず、再度、投薬により経過観察を行うとするB医師の判断も合理的であったといえる」とし、注意義務違反はないとした。(B)についても、平成20年7月15日、「B医師は、同日にAが右第1趾爪周囲炎に罹患していると診断した後、軟膏の塗布、ガーゼによる保護、フロモックスの処方等の治療を行っていることが認められ……この治療が不適切であったことを窺わせる証拠もない。」「しかも、……本件施設において、B医師等により治療が行われ……平成21年1月3日には治癒したものと認められる」として、注意義務違反を否定した。
これらはいずれも、事実認定のレベルで、Yの注意義務違反を否定したものである。医師が常勤である介護老人福祉施設での治療等にかかる判断であり、結論も妥当と思われる。医師が常勤でない介護老人福祉施設の場合、医師の治療や指示を適時適切に仰いだか否かが争点となり得るであろう。
3 情報提供義務違反
判旨に述べたように、本件では利用者本人および家族に対する利用者の健康状態等についての情報提供義務の存否が問題となった。
本件施設の入所契約書9条に「当施設は、利用者の皆様への説明と納得に基づくサービス提供(インフォームド・コンセント)及び個人情報の保護に積極的に取り組んでおります。」と規定していることを待つまでもなく、原則として健康状態等の変化を利用者本人に告げるべきことは、契約上の本来的義務として当然に求められるであろう。ただし、本件のように本人が認知症で判断能力が不十分な場合などにあっては、家族への情報提供が重要となる。この点、本判決は、法的義務としての情報提供義務と、利用者との信頼関係構築の前提となる密な連絡の必要性とをわけて捉え、入所契約書や重要事項説明書の内容に照らして、情報提供義務違反を否定した。妥当な判断であるが、これらの2つの要請に食い違いがあること自体、裁判に至る要因となっているように思われる。施設側としては、たとえ結果的に勝訴するにせよ、裁判リスクを低減させるリスクマネジメントとの観点からも、状況に応じた積極的な家族への情報提供が望ましいといえよう。
判旨の後段は、情報提供義務が一義的には家族ではなく利用者本人の法的利益に関わるものであることを示している。ただし、「Yには、Aとの関係で情報提供義務がない以上、Xとの関係でも同義務を認めることはできない」との判示には疑問が残る。先述のように、利用者本人との関連では本来的に広く情報提供義務が認められるのであり、本件のようにAの判断能力が十分でない場合に家族にどこまでの情報提供が求められるのかにつき、契約内容に照らして義務の範囲が確定されるものと考えるべきである。
※ この記事は月刊誌「WAM」平成26年5月号に掲載された記事を一部編集したものです。
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